山川啓介(井出隆夫さん)との不思議な縁

私は同じ小海町内からこの松原に嫁いで来たのですが、子育てが一段落してまだ姑が元気な頃、二人で少しばかりの畑を作っていました。
畑は2か所あり、字名で呼んでいましたが、「赤渋」の畑の中に『屋敷跡』と呼んでいる一枚の畑がありました。
なぜその畑だけ名前が付いてるのか不思議でしたが、昔誰かが住んでいたんだろうぐらいに思っていただけでした。
ところがそこが井出隆夫さんのおじいさんの井出八井さん(教育者であり、短歌も作ったり教えたりしていた。)が家を建て、隆夫さんが5歳まで過ごしたという場所だったのです。

ところで大人になってから知ったのですが、私の母と井出隆夫さんのお父さんはいとこだったのです。
なので私と井出隆夫さんは一応はとこになるわけですが、松原湖に「北風小僧の寒太郎碑」ができることになるまであまり認識していませんでした。
私自身は会ったこともありませんでした。
まだ中学生ぐらいの時に、母や親戚やらが「隆夫ちゃんのレコード(「ふれあい」)を皆で買わなきゃ」と言っていたのをうっすら覚えてはいますが、『隆夫ちゃん』が誰なのかははっきりわかっていませんでした。
その後、一度だけ寒太郎碑ができた後に親戚の家で隆夫さんと話をしたことがありますが、わたしの姉までは名前を知ってくれてましたが、末っ子のわたしのことは知らなかったようです。

大人になって嫁に来た家の畑がかつて隆夫さんの住んでいた場所であり、その隆夫さんとわたしがはとこだったことがなんだか不思議な縁だなあ・・・と思っています。
義祖父が八井先生に短歌を習っていた縁で『屋敷跡』を買い取ったようですが、義祖父の本棚にあった井出八井歌集は、俳句を趣味にしているわたしにはとても勉強になります。
明治から昭和の初めの松原の素朴な情景が目に浮かんでくるようです。

このたびは、もしかして井出隆夫さんとまだもう一度ぐらい話をする機会があったかもしれなかったのに(恐れ多いですが)、残念です。

DCIM1355

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